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1周年

さりげなく、Blog初めてから1年が経ちました。
いつも読んでくださってる皆様、ありがとうございました☆

さてさて、ちょっと振り返って、私がBlogを始めたきっかけの話でも。
多分あれですね、こみってぃの事務局BBSでの私の連載(笑)
学祭実行委員会のBBSに書き込みが少ない(書き込むことが殆どない)から、
BBSを活性化させようと、ちょうど公演中だったミュージカル「エリザベート」に触発され、
オーストリア皇后エリザベート(1837~1898)の生涯についてつづったのでした。
これは一部では好評、一部では不評で……不評の大体の理由が「BBSでやるな!」
書いてる方としては大変だったけど、楽しかったのに………というわけで、
そんな楽しいことを継続&もっと自由になる為にBlogを最終的には作ったのでした。

というわけで、今回はせっかくなので、そのBBSで連載していたやつを転載します。
「こんなものをBBSに載せてたのかいっ」と笑ってください。
とっても長いので、読みたいかただけ下の入り口をクリックして飛んでください。
「転載」といいましたが、若干の変更を加えてあります。
転載する為に過去のBBSの記事をひっぱってきたら、不真面目な内容の割合が高い…
いや、真面目なことも多いけど、他の局に比べたらどーでもいいことが多い気が…





宝塚月組公演「エリザベート」を4月30日にみてきました。
この作品は、1996年に雪組で初演されたウィーンミュージカルの大ヒット作で、
以後星・宙・花と再演、今回の月組公演が5組のトリを飾りました。
雪組初演時、私は受験生でありながら、当時最愛のトップさんのサヨナラ公演だった為、
塾の組分けテスト~千秋楽の間の10日間で4回見て、千秋楽も劇場付近にいました。
そして、エリザベートの曲がほぼ全て歌えるようになると共に、成績を落としました…(泣)
中学受験終了直後だった星組公演も、しっかり4回通いつめましたね~
また、中一の春休みにウィーンに行った時にも、しっかり現地で見てきました!
ドイツ語は分からないけど、日本語での歌詞は覚えてたから、
勝手に脳内変換されるという素晴らしさ。

しかーし!1999年の宙組公演は、人気の高さ・劇場の座席料金体系への不満・
愛の衰えなどから、見てないのですね…
また、2003年1~2月の花組公演も、大学受験にかぶってしまってみれなかった…

という訳で、実は「エリザベート」は7年ぶり!
どんなお話かっていうと、オーストリア皇后だったエリザベートの一生を、死
神とのロマンスを交えて追うお話です(一言で言うと)
このエリザベート(シシィ)は、実在の人物で、フランツ・ヨーゼフ1世のお妃です。
シシィは、1837年12月24日ミュンヘンで生まれました。(私と誕生日一緒なの♪)
本当は彼女の姉のヘレネがフランツと結婚する予定だったのですが、
フランツはお見合いの席に同伴したシシィに一目ぼれ。
二人は1854年4月にアウグスティーナ教会で結婚式をあげます。
そして二人は幸せな結婚生活を……と思いきや、シシィには最大の敵が現れます。
それがフランツの母親、皇太后ゾフィーです。
彼女は、若き皇帝の後見者として、宮廷で最も権力を持っていました。
もともとシシィは実家がバイエルン王国の一貴族にすぎなかった上に、
父親マックス公爵が自由をこよなく愛する性格であったことも加わって、
シシィ自身も自由を愛し、しきたりにとらわれない奔放な少女時代を送りました。
しかし、ゾフィーを筆頭とするウィーン宮廷は、スペイン=ハプスブルク家の
堅苦しい宮廷作法を重んじる場所でした。
それゆえ、シシィとゾフィーは初めから真っ向と対立、年若いシシィに勝ち目はなく、
彼女は精神的理由による病に苦しみます…


さてさて、シシィは精神的理由から病になり、フィッシャー博士の勧めによって、
マデイラなどの暖かい土地へと療養の旅ででかけます。
シシィはこの療養旅行によって、旅の魅力にとらわれたといっても過言ではないでしょう。
この先、シシィは堅苦しいウィーンを嫌って、しょっちゅう旅に出ます。
お気に入りといったら、ハンガリーにあったゲデレ城です。
当時、ハンガリーはオーストリアの支配下で、独立運動が頻繁に起こっていました。
しかしシシィは自由な空気の流れるハンガリーを気に入り、
ハンガリー人もシシィの美しさに魅せられて歩み寄ります。
1867年、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立してハンガリーに
大幅な自治権が認められるのですが、それもシシィの功労によるものです。


そんなシシィはウィーンではどうしていたのでしょう?
宮廷内で居場所がなかったシシィは、精神病院訪問などで弱者寄りの姿勢を見せ、
民衆に近い立場にいることを好みました。
そんなシシィの行動は次第に宮廷内でも無視できない権力を彼女に与えます。
市民はシシィに嘆願書を送るようになり、シシィはその嘆願が実現されるように
皇帝フランツへと働きかけていたからです。
その後、皇太子ルドルフの教育を巡ってのゾフィーとの争いに勝利して以降、
シシィはウィーン宮廷の中心的人物となります。


しかし、シシィは権力にしがみつくことはありませんでした。
自由を愛する彼女は、むしろ如何にウィーンを離れるかという事を考えて、
旅を繰り返すようになります。
この旅のお供をしていたのが、末娘マリー・ヴァレリーです。
長女ゾフィー(2歳で病死)・次女ギーゼラ・長男ルドルフが、生まれてすぐに
ゾフィーに奪われてしまったのに対して、このマリー・ヴァレリーは最初からシシィが
可愛がって育てた娘でした。そのためシシィに溺愛され続けました。
もう一人、シシィの旅のお供といえば、女官のイーダやマリー・フェシュテティチ夫人、
スターレイ夫人がいます。
彼女達はシシィが自ら選んだ女官で、イーダとスターレイ夫人はハンガリー人です。
このことからも、シシィがいかにハンガリーに愛着を持っており、
ハンガリー人を信用していたかが分かると思います。
彼女達はシシィの心の支えであったといっても過言ではないでしょう。


ここで、ちょっとシシィの美しさについても書いておきましょう。
シシィは当時「ヨーロッパ一の美女」といわれた皇妃でした。
実際、その美貌が外交に役立ってたのですね。
身長は172cm、体重50kg、ウエスト50cmという非常にスレンダーな体型です。
シシィは死が訪れるそのときまで、自室に器械体操の道具を設置し、
その体型を保ち続けていたそうです。


シシィの人生の中で、もっとも話として興味深いのは晩年ではないでしょうか?
シシィの晩年、それはまさしく死神にとりつかれたと言えるでしょう。
フランツの弟のメキシコ皇帝マクシミリアン、従兄弟バイエルン国王ルートヴィヒⅡ世、
皇太子ルドルフの変死、妹の焼死など結構色々とあるんですけど、ここでは
バイエルン国王ルートヴィヒⅡ世と皇太子ルドルフの死について少しふれます。


ルートヴィヒⅡ世はバイエルン国王で、ヴィッテルスバッハ家の出身です。
(シシィのママやフランツの母親のゾフィーもこの家の出身)
有名な話ですが、ヨーロッパの王族達は近親結婚が多かったのですね。
それゆえの弊害が大きく出たのが、このヴィッテルスバッハ家でしょう。
実はこの家系、いわゆる狂人が出やすい家なのです。
シシィは精神病院への慰問を頻繁に行ってたのですが、
それはこんな背景があるからなのです…。
実際、ルートヴィヒの弟のオットーは狂人として、常に監視下におかれてました。


さて、ではルートヴィヒⅡ世自身はどうだったかというと、
彼は若くして国王となった美しい青年でした。
ただ、彼は政務よりも芸術を愛してました(これもヴィッテルスバッハの血なのですが)
借金に苦しむワーグナーに傾倒して彼の面倒を見たり、お城作りに愛を向けました。
彼の情熱を傾けたお城は非常に美しいものばかりです。
特に有名なのがノイシュヴァンシュタイン城です。
このお城は「白鳥城」と呼ばれ、ディズニーのシンデレラ城のモデルにもなりました。
他にも、リンダーホーフ城やベルサイユ宮殿を模したヘレンキームーゼー城など
があります。ドイツ観光の際はゼヒどうぞ。


しかし、そんな生活をしていたのでは、国家財政は火の車。
政府高官の不信は高まっていってしまいます。
もう一つ、政府高官達の不信を高めることとなったもの、
それはゾフィーとの婚約破棄という事件でした。
このゾフィーというのは、実はシシィの妹で、姉妹の中でもっとも外見が
シシィに似ていました。元々シシィに憧れてたルートヴィヒでしたから、
きっとその面影に惹かれて、婚約したのでしょう。
しかし、いきなり理由も言わずにルートヴィヒは婚約を破棄してしまいます。
これには、シシィも怒りますが、この後もシシィとルートヴィヒは交流を続けていくのです。


このように政府高官の不信が高まっていく中で、ルートヴィヒ自身の奇怪な行動が
バイエルン中で噂となっていきます。
夜道を金ピカな馬車で走り抜けたり、お気に入りの青年と二人っきりで
二人の為だけのお芝居鑑賞をしたり…
様々なことが積み重なったため、ついにバイエルンの政府高官は強行手段にでます。
ルートヴィヒを狂人として退位させた上で、拘束しようとしたのです。
その役目に選ばれたのが、弟オットーの主治医であった当時最高の精神科医、
ベルンハルト・フォン・グッデン博士です。
彼は直接的にルートヴィヒを診察することはできませんでしたが、
様々な証言を元にルートヴィヒを精神病患者と診断します。
その診断書によってルートヴィヒは逮捕、シュタルンベルク湖の畔のベルク城に
監禁されてしまいます。


そして、運命の1886年6月13日、ルートヴィヒの望みにより、
グッデン博士同行のもとで散歩にでかけます。
しかし、二人はいつまでたっても帰ってこなかった為、皆で捜索に乗り出す事態に。
彼らがシュタルンベルク湖で見つけたもの、それは変わり果てたルートヴィヒⅡ世と
グッデン博士の姿でした。
しかし、この死は自殺か他殺か、はっきりしていません。真相が不明なんですね。
シュタルンベルク湖の中には、今でもルートヴィヒを偲んだ十字架がたっているそうです。


シシィはこのルートヴィヒの死に非常にショックを受けます。
書き忘れてましたが、シシィとルートヴィヒはとても仲がよく、心許しあっていたからです。
それと共に、彼女は自分の中に流れるヴィッテルスバッハの血に対しても
更に恐れを抱くようになったと思います。
ちなみに、シシィの妹ゾフィーは、ルートヴィヒとの婚約を破棄された後、
イタリアのアランソン公と結婚しますが、1887年に教会でのバザーでの火災の際に
皆を避難させる事に専念して逃げ遅れて亡くなってしまいます…
(上記の妹の焼死がこの事です)


もう一人、皇太子ルドルフの話もしておきましょう。
ルドルフは1858年8月21日に、シシィとフランツの長男として生まれます。
母親シシィの繊細な面を受け継いだルドルフは、皇位継承者として
厳しい教育をうけて育っていきます…


そんなルドルフの奥様となったのが、ベルギー皇女ステファニーです。
いわゆる政略結婚ですね、シシィは猛反対でしたが。
ちなみに、フランツの弟のメキシコ皇帝マクシミリアンの奥様も
ベルギー皇女のカルロッテです。
彼女はマクシミリアンが処刑された後、狂人となってヨーロッパに戻ってくることに…


ステファニーの話題に戻りますが、彼女はいわゆる美人ではなく、
皇女として育った割にはあまり洗練されてなかったといわれてます。
ルドルフはそんなステファニーの純朴さを気に入ったらしいですが、
それに飽きるのも時間の問題。
ステファニーを捨て置いて、ウィーン美女達と仲良くしてたそうです。
プライド高きステファニーはそんなの許せません!
二人の仲はどんどん険悪になりました。子供も皇女エリザベートしかいませんでした。


さて、ルドルフは皇太子という身分でありながら、
当時の自由主義の風に大分あたっていたようでした。
そんなルドルフと「皇帝らしき皇帝」フランツの仲だって微妙になるにきまっています。
事実、ルドルフが内緒でローマ法王にステファニーとの離婚許可を
願い出ていたことを知ったフランツは激昂します。
そのほかにも政治的な考え方のぶつかりも多々生じていくこととなります。
シシィの考え方はルドルフに近いものでしたが、なにせシシィは旅を愛して
ウィーンには寄り付かない…ルドルフはどんどん孤立していきます。


そんなルドルフの前に現れたのが、マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢です。
マリーは特別キレイな娘というわけではありませんでしたが、
非常に魅惑的ではあったようです。
ルドルフの従姉妹ラリッシュ夫人を通して親しくなった二人は、
だんだんその愛にのめりこんでいったといいます。


1889年1月、ルドルフはマリーを連れて、仲間との狩りのために
ウィーン郊外のマイヤーリンクに向かいます。
マイヤーリンクで仲良く眠りについた二人が目を覚ますことは二度とありませんでした。
1月30日早朝、二人は冷たくなった姿で発見されます。
二人のこめかみには銃弾の後が残っており、ルドルフがマリーを撃ったあとに
自殺したという、心中説が噂となります。
ルドルフの死体はハプスブルクの霊廟であるカプチーナ教会に埋葬されています。


さて、このルドルフの死、長い間「心中」したものだと信じられ、映画化もされました
(宝塚でもやってます)
しかし、1980年代に驚くべき告白が行われます。その告白をしたのがチタ皇后です。
チタ皇后はオーストリア=ハプスブルク帝国最後の皇后様です
(1918年に帝国が解体するまで皇后だったのね)
彼女の告白、それは「ルドルフ皇太子は自殺したのではなく、暗殺、
しかも政治的な暗殺なのです」というものでした。
このことにより、元々ナゾの多かったルドルフの死は、更に謎に包まれてしまい…
チタ皇后はいくつかの証拠を示しはしましたが、決定的に暗殺といえるものではなく、
更にチタ皇后はすでにお亡くなりになったため、本当に真相は霧の中なのですね。
さて、皆さんはどう考えますか?


ルドルフの死後、シシィは常に喪服を身にまとい、更に旅に明け暮れる日々を送ります。
ウィーンに帰るのは年に数回でしたが、フランツには手紙を欠かすことはなく、
二人が疎遠になるということはありませんでした。


1898年9月、シシィは少数のお供とスイス・ジュネーブのレマン湖畔を訪れます。
レマン湖からは雄大なアルプスが見えるので、きわめて眺めがよく、
シシィお気に入りの地の一つでした。
ジュネーブにくると、シシィはよくホテル・ボー・リヴァージュに泊まっていたといいます。
このホテルには今でも、シシィが泊まった部屋がそのまま残されているんですよ。


1898年9月10日、それはシシィにとって運命の日となりました。
午後2時、シシィは出港間近の船に乗るため、スターレイ夫人だけを連れて、
レマン湖の船着場へと急いでました。
仰々しい旅が嫌なシシィは、スターレイ以外のお供を別ルートで先に出発させたのです。
シシィが早足で船着場へと向かう途中、一人の男がシシィに向かって突進してきて、
何かをシシィの体へと振り落としました。
その瞬間シシィはバランスを崩し気を失いますが、すぐに意識を回復、
「急ぎましょう」といって船に乗り込みます。
120歩近く歩いて乗船、出港した瞬間シシィは再び意識を失って倒れてしまいます。
介抱しようとシシィの上着を脱がせたスターレイ夫人は、
そこで初めてシシィが胸から出血してることに気づきました。
あわてたスターレイ夫人は船をジュネーブに戻してもらい、
シシィをホテル・ボー・リヴァージュへと運びます。
医師も呼ばれ、皆でシシィの意識が戻るように努力をしますが、
午後2時40分、シシィは帰らぬ人となってしまいます。
シシィは細いヤスリで胸を刺されており、傷が深かったために
致命傷となってしまったようでした。


さて、シシィを襲ったその男は、その場で現行犯逮捕されて警察に引き渡されます。
男の名はルイジ・ルケーニ。イタリア人のアナキスト(無政府主義者)で、
誰か王族・貴族を殺して有名になろうと考えてました。
そんな時、偶然新聞でシシィがジュネーブに来てるのを知り、シシィを狙ったといいます。
取調べ中にシシィの死を知ったルケーニは声を上げて大喜びし
自分が死刑になることを望んだといいます。
しかし、ルケーニは死刑ではなく刑務所に収容されたため、
独房内で自殺を遂げることとなりました。


この日の朝、ウィーンのホーフブルク宮殿では、いつものようにフランツが
午前5時に起きて政務を行ってました。
シシィの死を側近から聞かされた皇帝は、「この世ではありとあらゆるものが
私から奪われていく…」とつぶやいたそうです…
しかし、フランツにはまだ奪われるものが残ってました。
皇太子ルドルフの死後に皇太子となったフランツ・フェルディナンドと皇太子妃ゾフィーは、
1914年にサラエボで暗殺され、第一次世界大戦のきっかけとなりました。
フランツ自身は大戦中の1916年11月21日に、享年86歳で亡くなります。
彼は死の前日まで、皇帝としての政務を精力的にこなしました。
ハプスブルク帝国の崩壊を見ることのなかったフランツでしたが、
帝国はその2年後の1918年にカール一世が退位して終焉を迎えることとなります。


最後に一つエピソードを。
ルドルフの亡くなったマイヤーリンクに、シシィは修道院を建てました。
その修道院には、不思議なマリア像があります。
そのマリア像の心臓にはナイフがささり、血を流しているそうです。
シシィがどういう意図でそのようなマリア像を置いたのかは謎ですが、
なにか暗示的じゃありませんか?

by ff-girl | 2006-07-05 23:12 | その他